今からおよそ2年前、コロナの第8波がピークを過ぎた2023年3月、僕は都内のピッツェリアで、演出家の羽鳥嘉郎氏と数年ぶりに会食をした。注文した料理が供されるのを待ちながら、互いの近況を報告し合っている最中だったろうか、羽鳥氏は不意にカバンの中に手を伸ばし、一冊の奇妙な小冊子を取り出した。表紙に印刷されているのは、ヨーロッパの軍人と思しき不気味な男たちの白黒写真。その右下には『戦争案内』というタイトルが白抜きの漢字で、左下には「ベルトルト・ブレヒト」という作者名が白抜きのカタカナで記されていた。僕はブレヒトに関しては、その著作のすべてに精通しているわけではなかったけれど、彼の演劇論も含め、おおよその作品は把握しているつもりだったので、「この冊子、ご存知ですか?」と羽鳥氏に問われた瞬間、顔を引きつらせずにはいられなかった。「少し見せていただいてもよろしいですか?」「もちろん。」僕は羽鳥氏から小冊子を受け取り、恐る恐るページを開いてみる。僕の目に飛び込んできたのは、戦争に関連する報道写真と4行詩を組み合わさた紙面の構成だった。なかなか面白そうではないか! 誰が訳者なのかを知りたく思い、奥付を探すが、なんとも不思議なことに、訳者の名前はおろか、出版社の名前すら記載されていない。私家版なのだろうか。僕は表情を強張らせたまま、羽鳥氏に小冊子を返却した。その直後だったろうか、それとも、しばらく経ってからだったろうか、記憶は定かではないが、羽鳥氏は次のような決定的な言葉を口にした。
我々はブレヒトが試みたことを、戯曲や論集といった形で「読む」ことはできるけれど、ビジュアル的な仕方で「見る」ことは難しい。その意味でも、ブレヒトの『戦争案内』は、ブレヒトの試みを実際に「見る」ことができる作品として、極めて重要な作品ではないか。
羽鳥氏の考えに。僕は全面的に同意せずにはいられなかった。なるほど、ブレヒト自らが演出した舞台の記録映像は、ハンス=ユルゲン・ジーバーベルクが1953年に記録したものを含め、数点残されてはいるが、そのどれもが、無音かつ断片であるため、ブレヒトの試みを実際に「見る」ための材料としてこれらの記録映像を用いるのはさほど簡単なことではない。一方、ブレヒト自らが作成した『戦争案内』という作品は、「(4行詩を)読む」ことを通じて「(戦争に関連する報道写真を)見る」ことができる仕掛けになっており、ブレヒトの試みを実際に「見る」ための材料として、極めて手軽かつ有益な作品ではないだろうか。
ピッツェリアでの『戦争案内』との出会いから数か月後の2023年7月30日、羽鳥氏の提案で『戦争案内』の研究会が結成された。演出家や俳優といった演劇人に加え、写真家にデザイナー、さらにはドイツ文学の研究者までもが集う研究会は、結成から1年と8か月が経過した今なお、定期的な開催が続いている。僕たちが研究の中心に据えているのは、『戦争案内』の原本 Kriegsfibel(1955年発行の初版と2008年発行の新版、さらにはブレヒトの亡命中に作成された手稿版)であるが、適宜、英語訳、フランス語訳、イタリア語訳、そして二種類の日本語訳も参照している。二種類の日本語訳に関して言えば、いずれも優れた仕事ではあるものの、その内容に改善の余地がまったくない訳ではなく、さらには、一般に流通する形で出版されたものではないため、日本の多くの人々が『戦争案内』を楽しむためには、研究会の僕たちが、この作品を翻訳し、正式な出版を試みる必要があるだろう。
こうした僕たちの出版に対する思いに応えてくださったのが、評論家の大谷能生氏だ。非常に有難いことに、『戦争案内』の出版に向けての講座「ブレヒトの『戦争案内』研究」を、大谷氏が運営なさっている「ワイキキ・スタジオ」にて、下記の仕方で、今月の20日(日)に開催させていただけることになった。
ワイキキ・レクチャー・シリーズ #2
ブレヒトの『戦争案内』研究 / vol.1
日時:2025年4月20日(日)18時15分開場/18時30分開始
料金:2,000円
講師:『戦争案内』研究会
聞き手:大谷能生
予約受付:info@ootany.com
ちなみに僕はこの日、「ブレヒトの〈異化効果〉は本当にどのようにあるのか」というテーマで、以下の2点を強く意識しながら、『戦争案内』を『肝っ玉おっ母』と結び付け、じっくりとお話しさせていただく予定だ。
(1)文献に基づき、出典をはっきりさせながら話をする。
(2)本質主義に堕することなく、できる限り具体的に話をする。
講座にご参加くださる方々にとって、学びの多い(=楽しい)講座になるよう、日々準備を進めている。乞うご期待!